縄文時代に米作は行われていた?米作の起源は?

現在の「日本の米」であるジャポニカ米の栽培は、中国の長江の中流や下流域で栽培が始まり、日本に伝播したといわれています。

インドのアッサムや、中国雲南の山岳地帯で始まった稲作が、長江から東へ進み、朝鮮半島を経由して西日本へ上陸したとする説や、長江下流から北九州の対馬を超えて伝わったとする説、台湾経由で伝わったとする説、朝鮮半島から直接日本海岸沿岸に伝わったとする説など、さまざまなルートが考察されています。

歴史の教科書で習う縄文時代と弥生時代の違いには、米作を行う稲作の有無が時代区分の判断材料と基準ですが、発掘された遺跡からは、縄文時代の後半には稲作が始まっていたことを示す遺物が見つかっています。

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米作が弥生時代に伝えられたと考えられた理由

稲はもともと自然に自生していて、野生の稲が変化して栽培が可能な現在の稲になっています。

現在のアジアで作られる米作の原点は、野生の稲のタネを採取して集め、モミを居住地の近くにばらまき、成長して茂り実ったら収穫するという原始的な栽培が始まりで、原始人たちは、自然に自生する草木の中から、その土地の風土に適した収穫量の多いモミを選別しています。

時間の経過と共に、メソポタミアを中心とした西側では麦が選ばれ、日本も含めたアジアでは稲が選ばれ、米作が広がったと推測されます。

戦後まもなく静岡県で発見された登呂遺跡から、水田跡や炭化米、農具などが確認され、稲作が弥生時代の日本に伝わり始まったとされました。

しかし、昭和35年以降に九州地方で発見された複数の縄文時代の遺跡からは、すでに稲作が伝わっていた痕跡が確認され、前述のような理由から、それ以前にも原始的な農耕での米作の可能性が示唆されています。

縄文時代に行われた米作を示す遺跡には?

縄文時代の後半にあたる今から2500年前には、「水田での米作り」の方法が伝わり、狩猟や採集を中心とした縄文時代から、農耕を中心とした弥生時代のきっかけを生んでいます。

東南アジアで誕生した稲は、人が種を持って移動し、各地に米作が広がり、日本に伝わったルートが複数あるのもそのためです。

稲が日本に伝わった最古の痕跡は、福岡県の四箇東遺跡や熊本県の東鍋田遺跡で見つかったプラントオパールによって、縄文時代後期と推定されます。

縄文時代の終盤にあたる福岡県の板付遺跡や佐賀県唐津市の菜畑遺跡からは、炭化米や土器に付着したモミの圧痕、農具、用水路、水田に入る水流を調整する柵などが見つかっています。

九州北部に見つかった縄文時代の米作に関する遺跡から、大陸から米作の技術が大陸から北九州に伝播し、その後各地に稲作が広がり、弥生時代へと時代が移行したことがうかがえます。

縄文時代の米作は北九州に伝来した?

静岡県登呂遺跡の発見から、日本での稲作の始まりは弥生時代からとされてきましたが、その後に発見された縄文時代の遺物や遺跡から、縄文時代の後期には大陸から種もみと共に米作の技術が伝播したと考えられ、稲作はもっと以前から伝わっていたとも推察されます。

縄文時代の後期には米作が行われていた証拠には、福岡県板付遺跡や佐賀県唐津市の菜畑遺跡があげられ、大陸から米作の技術が北九州に伝わり、各地に広がっています。

米作の広がりは、弥生時代以降の日本の主食となる穀物として、日本の気候に合わせた品種改良が重ねられ、今につながっています。

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