縄文時代の大規模集落跡である三内丸山遺跡とは?

獲物を追いかけながら、狩猟で食料を調達して暮らしを支え、あちこちに移動できる住居を構えたイメージが持たれていた縄文時代が、三内丸山遺跡で一変しています。

特別史跡となっている三内丸山遺跡は、これまでに発見された日本最大級の縄文時代の集落跡で、長期間にわたる定住生活の痕跡を示しています。

遺跡には、縄文時代の住居や倉庫、集落の象徴的な3層の掘立柱建物が再現され、資料や出土品が展示された施設も作られ、青森県教育庁が発掘調査にあたっています。

縄文時代の人々の暮らしの謎を解明する重要な遺物や遺構が残された三内丸山遺跡を紹介します。

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縄文時代の三内丸山遺跡の特徴とは?

青森県で発掘された縄文時代の三内丸山遺跡は、今から約5900年前から4200年前の大規模集落跡で、約500人前後の縄文人が約1500年間にわたり定住生活したと推定されています。

これまで縄文時代の人々は、50人程度で集落が形成され、定住場所周辺で獲得できる獲物が少なくなれば、別の場所へと移動する生活が想像されていましたから、三内丸山遺跡での集落の人数と定住期間は、狩猟による獲物の獲得だけではなく、農耕による食料確保が行われていたことが推測されます。

縄文時代前期にはエゴマやヒョウタンなどがすでに栽培され、後期にはヒエや米、蕎麦、麦などの稲作を含めた農耕が行われたと推測されています。

しかも、集落につくられた集団墓地の存在は、約1500年続いた集落で、世代交代を繰り返しながら定住生活が継続されたことを示しています。

縄文時代の三内丸山遺跡の遺構と暮らし

縄文時代の三内丸山遺跡には、住居としての竪穴式住居跡をはじめ、大型竪穴式建物跡、掘立柱建物跡などが発掘されています。

特に、集落の象徴的な三層の掘立柱建物からは、当時すでに高度な土木技術を持ち合わせていたことがわかります。

竪穴式住居の内部には円筒状の石が置かれ、家族で祈りを捧げる祭壇のような役割と考えられ、翡翠の装飾品や土偶の存在と共に、自然を崇拝した精霊信仰に似たものがあったと推察されています。

また、三内丸山遺跡に埋葬された人骨からは、戦争や争いで傷ついた痕跡がみつからず、集落内外での争いがない生活を送ったことが推測され、集落内での身分制度や階級が存在せず、争いの原因が排除されていたようです。

縄文時代のイメージを変えた三内丸山遺跡

狩猟生活のために洞窟や仮説のテントのような住居での移動生活を送っていた旧石器時代から、縄文時代には定住生活がはじまり定着したとされ、三内丸山遺跡は、それを裏付ける大規模集落跡となっています。

三内丸山遺跡には、これまで想像されていた縄文時代の集落をはるかに超える規模の人数と定住期間からは、狩猟だけでなく農耕が行われたと推測されています。

また、集落の象徴的な掘立柱建物からは、高度な土木技術の存在が認められ、竪穴式住居の内部に置かれた円筒状の石からは、自然崇拝の信仰も推察されています。

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