縄文時代の晩期の実態を示す遺跡は?

アメリカ人動物学者モースが、大森貝塚から発見した縄文土器の報告により縄文時代が命名され、時代の特徴ともなった土器が作られた時期によって6つに区分されています。

氷河期が終わり温暖化した縄文時代には、それまでの打製石器から磨製石器を作る技術を習得し、土器を発明し、狩猟採集を中心とした生活を送りながら、植物の栽培も始まっています。

植物の採集や栽培による食物確保が可能となると、洞窟を移動しながらの生活から、数戸単位からの集落を形成した定住生活へと移行しています。

このような生活内容の変化は、六つに区分される縄文時代の後期や晩期に昇華されており、青森県の亀ヶ岡遺跡などから調査されています。

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縄文時代の進行とともに変化した文化

縄文時代草創期の日本列島は氷河期の名残があり冷涼で、北海道と樺太、現在の本州とも陸続きの状態で、その後の温暖化によって海面が上昇し、対馬海流が日本海に流れ込み、日本海側にはブナなどの森林が形成されています。

縄文時代早期になると、定住集落ができ始め、九州南部の上野原遺跡や金峰町の遺跡が発見されています。

縄文前期から中期は最も縄文時代の文化が栄えた時期にあたり、青森県の三内丸山遺跡に残された縄文時代の人々の生活の痕跡が証明していて、この時期の日本列島には九つの文化圏があったと考えられます。

縄文時代後期に入ると、温暖化していた気候が再度寒冷化しはじめ、海水面の低下が起き、食糧生産の低下や人口の停滞が起きています。

縄文時代後期と晩期を象徴する遺跡は?

温暖化していた気候が寒冷化しはじめた縄文時代後期には、貝類の漁場となっていた干潟が縮小し、低湿地の増加に伴いそれまで栽培されていた栗からトチノキへと急激に変化しています。

縄文時代の後期や晩期を象徴する青森県の亀ヶ岡遺跡からは、トチノキからソバへと栽培が変化した痕跡が発見されています。

縄文時代を象徴する縄文土器も、晩期には集大成ともいえる実用性と芸術性の高い土器が多く作られ、亀ヶ岡式土器や遮光器土偶、藍胎漆器などが作られています。

また、秋田県の大湯環状列石などのストーンサークルといわれる祭祀遺跡が数多く見つかっています。

縄文時代の晩期を示す亀ヶ岡遺跡

縄文時代の名前の由来となった縄文土器の技術が最も高められた晩期のものは、青森県の亀ヶ岡遺跡から多様な土器が大量に出土しています。

亀ヶ岡遺跡の縄文晩期の土器には、精巧な文様や、黒や赤の漆で装飾がみられ、この時期に東日本に分布する土器の「亀ヶ岡式土器」の名前の由来ともなっていて、遮光器土偶も発見されています。

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