縄文時代の琉球諸島は、日本本土の交流はあったと考えられ、北部の島々は旧石器時代以来、南九州の土器文化を受け入れた形跡が見られるため、南九州の文化圏だったと考えられます。
しかしながら、中部の奄美や沖縄に縄文文化が伝わったのは大幅に遅れたことが、遺跡の発見には空白の時代があることから推測されます。
沖縄本島の渡具知東原遺跡から中九州の會畑式土器が発見され、さらに爪形文土器も出土したことから、琉球諸島中部地域に九州の縄文文化が伝播したと推測され、「貝塚時代」が始まっています。
縄文時代の琉球諸島にあった貝塚時代を紹介します。
琉球には縄文時代にあたる二つの時代がある?
現在の沖縄県がある場所は、古代日本では琉球諸島南部にあたり、縄文土器などの出土が見られないため、沖縄に縄文時代が存在したかどうかは判断が分かれています。
そのため、琉球の縄文時代にあたる時代を「貝塚時代前期」、弥生時代にあたる時代を「貝塚時代後期」とする時代区分が存在します。
那覇市内で見つかった山下洞人と、具志頭村の港川で見つかった港川人といった遺骨から、いずれも中国大陸からやってきたと考えられています。
貝塚時代前期の遺跡には、縄文時代中期ごろ以降の物が見つかっていて、後期になると遺跡が移動して漁業を中心とした生活が垣間見れます。
縄文時代の琉球諸島にあった三つの文化圏
縄文時代の琉球諸島には、北部、中部、南部の三つに分類される文化圏があり、北部と南部からそれぞれ文化が伝わっています。
北部の文化圏には、九州南部から日本本土の縄文文化が伝わり、時間の経過とともに南部へと文化が伝わり独自の文化が発展しています。
その一方、南部には台湾の先史時代に使われた土器に近いものが見つかっていることからも、東南アジアや南方の島々から文化が伝わったと考えられます。
その後、時代が進むに従って、日本本土の縄文文化に近い状況となったと推測されています。
縄文時代の琉球は日本本土とは違う文化が形成された?
縄文時代の琉球諸島は、その地理的な位置から、北部と中部、そして南部の三つに分類され、さらに縄文時代の早期、前期、中期に区分されます。
縄文時代の早期や前期にあたる時代は、貝塚時代前期と呼ばれ、北部には九州南部の縄文文化が伝わり、南部には東南アジアや南方の島々から文化が伝わっています。
時間の経過とともに、日本本土の縄文文化が伝わり、独自の文化の発展を遂げています。