縄文時代の中国大陸とのかかわり

打製石器や磨製石器を利用して作られた丸木舟によって、日本各地はもちろん、朝鮮半島や中国大陸との交易や交流が行われていた縄文時代の日本列島は、大陸の影響をさまざまに受けています。

縄文時代の日本列島に集落が形成されていた頃の中国大陸では、大乙が殷王朝を開き、古代王朝が形成され、その後の周、戦国時代へと変化しています。

中国大陸で始まった水稲を始め、その後、漢字や仏教、寺院建築などさまざまな技術や文化が日本に持ち込まれ、古代日本の文化や政権の形成に大きな影響を与えています。

縄文時代の人々と中国大陸とのかかわりについて紹介します。

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縄文時代の日本列島に相当する中国大陸の状況は?

氷河期の旧石器時代が終わり、温暖化しはじめた気候の中、縄文土器の発明により植物食を中心とした食生活への転換が図られた縄文時代は、徐々に定住生活が定着して集落が形成されています。

縄文土器の発明で始まった縄文時代の日本列島と同時期の中国大陸は、中国の前史から殷王朝、西周、東周、春秋、戦国といった時代の変遷を遂げています。

中国大陸での春秋時代とその後の戦国時代にかけての混乱と戦災を避けようとして難民となって、縄文時代の日本列島に流入した渡来人や、それ以前の殷王朝や周の時代の政変時にも渡来人が流入したと考えられています。

いずれにせよ、縄文時代の日本列島に住んだ縄文人と中国大陸との海峡を挟んだ交流と交易が存在したことは明らかで、弥生時代に本格化する稲作も揚子江流域から伝えられています。

縄文時代の日本列島と中国大陸との関わりの痕跡

縄文時代の日本列島と中国大陸との関わりの痕跡は、縄文時代末期に伝えられた稲作やそれに関連した文化が、九州北部を中心とした各地の遺跡にみつかっています。

中国大陸からの水稲に関する技術や文化は、大陸を北上して朝鮮半島を南下する経路や、海洋を直接東へと渡って日本列島に入った経路が推測できますが、丸木舟の存在からも、海洋を渡り直接日本列島に持ち込まれたと考えられています。

縄文時代の九州北部で産出した黒曜石や縄文土器が朝鮮半島の南部で見つかり、中国製の耳飾りなど中国大陸の物品が朝鮮半島を経由して日本列島でもみつかっています。

その中でも、縄文時代末期に伝えられた稲作については、九州北部の菜畑遺跡や板付遺跡に中国大陸との関わりの深さが示されています。

縄文時代の日本列島と中国大陸の交流

狩猟採集を中心とした生活を送りながら、次第に植物の栽培や稲作の技術が中国大陸から伝えられた縄文時代には、多くの丸木舟が作られ、海上交通を利用した交易や交流が行われています。

定住生活が定着しはじめた縄文時代の日本列島に対して、王朝の組織が形成された中国大陸からは、その混乱や戦災を避けた難民が流入したとも考えられています。

中国大陸の揚子江で始まった稲作は、時間をかけて縄文時代の日本列島に伝えられたと考えられ、弥生時代に本格化したと推測されています。

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