縄文時代にやってきた渡来人の影響は?

ここ数年の日本には、海外からの観光客が急増し、外国人の移住者の受け入れの数も年々増加傾向にありますが、先史時代の縄文時代から弥生時代にも、多くの渡来人が移住しています。

縄文時代の日本列島にいた縄文人と弥生人の身体的な特徴や顔つきの違いは、発掘された遺骨からも違いが判明しています。

中国大陸で始まった水稲は、日本列島での縄文時代末期から時間をかけて伝えられたと考えられ、中国大陸や朝鮮半島から日本列島へと移住した最初の渡来人と考えられます。

縄文時代から弥生時代にかけて、中国大陸での時代背景などから日本列島へと移住した渡来人が、先住の縄文人に与えた影響などを考察してみます。

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北部九州で発掘された弥生人と縄文人の違い

これまでは、先住民だった縄文人が渡来人によって取って代わられ、弥生人となったとする説や、さまざまな推測がなされてきました。

それには、日本各地で発掘された縄文時代の遺跡の人骨からは、背が低くてイカつい顔立ちの縄文人が検証されていますが、弥生時代の遺跡から発掘された人骨からは、縄文人とは違う長身で、面長な細面の特徴が判明したことなどが理由となっています。

特に、北部九州にみつかった弥生時代の遺跡の遺骨には、朝鮮半島や中国大陸の古代人の特徴と類似していて、弥生人の多くが渡来人だったと推測されています。

現在の福岡県筑紫野市一帯から出土した弥生人の骨は、周囲で発見された弥生人に比べて面長で背が高かったと判明し、渡来人の可能性が高いと考えられています。

骨に残されたDNAを分析した研究が、現在では佐賀大学医学部を中心として進められています。

縄文時代の後半から弥生時代に渡来人が押し寄せたのは?

中国大陸や朝鮮半島から、縄文時代の後半から弥生時代の日本列島に渡ってきた渡来人たちは、揚子江流域などで始まった水稲栽培を伝えています。

種もみを自然に撒いて栽培した陸稲から、手間をかけて収穫量を増やす水稲栽培の技術が菜畑遺跡や板付遺跡に伝えられていることからも、縄文時代の後半から徐々に、渡来人が日本列島に移住したと推測されています。

中国大陸での春秋時代やその後の戦国時代にかけて混乱が起き、戦災を避けて難民状態となって、日本列島へと移住したとも考えられていましたが、それ以前の殷や周の時代の政変による混乱とも推察されています。

最近の縄文時代と弥生時代の人々の遺骨のDNA研究からは、大陸や朝鮮半島からの渡来人を先住民である縄文人が受け入れ、稲作文化を選択するとともに、渡来人の血が入り、人口が急増したと推定されています。

縄文時代の縄文人が受け入れた渡来人と稲作文化

縄文時代の後半から弥生時代に大陸や朝鮮半島から移住してきた渡来人は、先住民である縄文人が受け入れ、渡来人と徐々に血が染まり、それまでの狩猟や採集、栽培を中心とした生活から稲作文化も受け入れています。

それに、渡来人を受け入れた縄文人たちは、弥生時代の日本列島に爆発的な人口増加をもたらしていて、最近のDNA研究がそれを裏付けています。

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